2009年10月23日金曜日

新しいSEMがやってきた!

 職場に新しいSEM(走査型電子顕微鏡)が入った。これまでのSEMも決して安物ではなかったのであるが、導入から6年以上経過しており、その間、他部署も含めて毎日多数の人々が寄ってたかって酷使したため老朽化による不具合が頻発していた。
 測定したい試料に電子線を照射し、生じる二次電子、X線、反射電子などをとらえて像として表示したり、元素分析を行う(EDX)という基本原理はもちろん新機種も旧機種も変わらない。
 しかしながら、新機種を使ってみると新しい機能が盛りだくさんで、使い勝手は格段に向上している。まず、最近の機種としては珍しい機能ではないが、試料室の内部が見える!というのに感動した。旧機種にはこの機能が無かったため、サンプルを前後左右、上下に動かしている間に検出器にぶつけてしまう危険を測定中は常に感じていた。「最近の機種は試料室内が見えるらしいよ。」という噂を聞いて、「欲しい!」と強く思っていたので本当にうれしい!
 新旧を問わず、SEMは試料が乗るテーブルを手前に引っ張り出し、サンプルを固定したホルダーをテーブルに乗っけて、テーブルごとサンプルを試料室に押し込み、試料室内部を真空にして測定、という手順で操作する。あとは画面に映された像を見ながらテーブルを前後左右に動かして位置を決め、上下に動かすことでピントを合わせる。
このたび導入された新機種では、テーブルをチャンバーに押し込む前に備え付けのカメラでサンプルの真上からの写真を撮影する。チャンバー内ではこのサンプルの写真の任意の位置を画面上でダブルクリックするだけでその位置にテーブルが自動的に移動するのである!
旧機種では前後左右(正しくはX軸方向とY軸方向)の移動は手でハンドルを回すことで行っていた。新機種でも手動での移動はもちろんできるが、基本的には前述のように試料の写真の任意の位置を指定するとモーターがハンドルを回し、自動的に移動する。ハンドルが勝手に回っているところを見ると「新しい機種なんだなぁ。」としみじみ感じる。
このような機能を使い慣れた人にとっては「なんてことない」当たり前の機能かもしれないが、私がつとめているような零細企業ではそうはいかない。SEMを更新するという話は聞いていたものの、実際にモノを見るまではなかなか実感できなかったほどである。
 この新機種には別付けでEDXがついている。旧機種にもEDXは付いていて、機能的には必要な物は全て揃っていたが、いかにも後から付けました的な使い勝手の悪さが感じられていた。新機種では機能的には旧機種から大きな変更は無いものの、SEMとEDXの連携は非常に良くなっている。
また、さすがに購入直後の新品、高倍率でもSEMの画質が非常に良い。いままで悪戦苦闘して撮影してきたのがウソのようである。ピント合わせや倍率変更は制御用パソコンの画面上でも、手元の制御盤のダイヤルでも好きな方法でできる。この制御盤は旧機種には無かったのだが、使い慣れると非常に便利である。画面上でマウスをグリグリやるより操作性は格段に向上している。
 このように使い勝手が格段に向上したSEM/EDXシステム、早く使いたい人が列をなして順番を待っている。かと思いきや、そうでもない。
好事魔多し。新機種にもいくつか気にかかる点がある。最大の難点は、検出器が「ちょっと油断するとサンプルとぶつかっちゃうよー。」と言わんばかりの位置にむき出しの形で付いている。検出感度を上げるためにこのような構造になっているのであろう。新旧を問わず、検出器にサンプルをぶつけるのはタブーであるが、今回は設置しにきたエンジニアの人が、「この検出器は指でかるーく触っただけでも破損します。破損したら部品代だけでも60万円かかります。」と脅したモノだから誰も使いたがらなくなってしまったのである。モノ使いの荒い我が社のこと、早晩誰かがやらかす可能性は高いのであるが、さすがに自分がその"誰か"にはなりたくはないというわけである。
旧機種ではサンプルと検出器の適正距離は20mmだったのが、新機種では10mmと短くなっている。即ち、サンプルと検出器はより接触しやすくなっているのである。
 とはいえ、仕事であるから使わないわけにはいかない。私もおっかなびっくり使い始めたが、なれてしまえばやはり快適。SEMと畳は新しいに限るねぇ、とかいいながら新SEMライフを満喫している。ちなみに、今回の買い物はSEMとEDXを合わせて1,700万円とのこと。これで作業効率と解析力が格段に向上するのであるから安い買い物である。

「宇宙創成」

 サイモン・シンの「宇宙創成」(新潮文庫)は、古代から現代に至るまでの人類と宇宙との関わりを通して、「宇宙はビッグバンに始まり、今も膨張し続けている。」というビッグバン宇宙論にたどり着くまでの壮大な叙事詩である。
 同じくサイモン・シンの作である「フェルマーの最終定理」、「暗号解読」(いずれも新潮文庫)と同様、読み始めるとやめられない止まらない。読者の知的好奇心をくすぐり続けて飽きさせずにラストまで引っ張ってゆく筆力に脱帽。教科書や参考書もこのくらいおもしろければ理系離れの問題など起こりようがないのだが。

2009年10月2日金曜日

日本語について

 お店でオーダーの後に店員に「以上でよろしかったでしょうか。」と聞かれるとムズっとする。
なぜ、よろし「かった」と過去形にする必要があるのか。そもそも、店で接客について教育する際に
よろしかったでしょうか、はダメ!」となぜきちんと教えないのか。
 日本語も変遷してゆく。「落ち込む」という言葉は元来、「低いところに落ちて入る」という物理的な落ち込みのみを意味する言葉だったが、いつの頃からか「気分的に下がり気味」をも意味するようになった。
「へこむ」という言葉も同様。
 以前は使われなかった意味で使われるようになったり、消えていったり、言葉は生き物である。やむを得ない変化と、やっぱり許せない変化、どこで線を引くかは確かに難しい。ある言葉遣いを「おかしい、不快だ」と感じたり、「美しい、センスがいい」と感じたりする言語感覚は誰かに体系的に教えてもらうものではなく、また、参考書で勉強できるものでもない。新聞記事にすら間違った表現や誤変換がゴロゴロしているのだからもはや何を信じて良いのかもわからない。
 迂遠なようであるがやはり日頃から様々な書物に親しんで少しずつ言語感覚を磨いてゆくしかないと私は思う。